2022年06月28日

ヤングケアラー5

 

「ヤングケアラーとして24年間過ごされて周りの人からどう言われましたか?」

 

 

T「子供の時は{お母さんの事、頼んだね。}とか{しっかりしててえらいね。}と言われてその時は子供なので言われると嬉しくて凄く一生懸命頑張っていて、そのまま大人になるまで続いてしまったような感じです。」

 

 

「えらいね。と言われるのはどう思いますか?」

 

 

 

T「子供にとっては自分の存在価値を認めてくれ労をねぎらってほめてくれるいい言葉なんだと思いますけど、それによって頑張り過ぎてしまうし言われることによって極限まで追い詰めてしまう危険な言い回しだと思います。」

 

 

 

「大きくなって友達から労をねぎらうようなことを言われるのはどう思いますか?」

 

 

 

T「なかなか理解されなかったんですけど・・・例えば待ち合わせなんかしてたりすると母の症状が悪かったりして待ち合わせの時間に遅れて行ったりして、それが何回も続いたりするといい加減な人と思われたり言い訳してると思われたり付き合い悪いなと言われたり・・・大人になってからは介護そのものに関して言えば{働いてない。}なんて言うと世の中で言うニートと捉えられてしまって友達に{何してるの?}と聞かれると{母の症状が良くなくて働いてないんだ}と言うと{働かなくていいなんてうらやましい}とか{変わって欲しい}と言われ介護のつらさを判ってもらえず{介護は価値が無い}みたいに思えちゃって、そもそも介護は{してていいね}と言われることは全くないし、でもその介護ってこと自体を放り出せない自分を考えた時にとてもしんどかったです。」

 

 

 

「24年間の心の中はどうだったでしょうか?」

 

 

 

 

T「曇りでした。子供の時から勉強してても遊びに行ってても頭の半分は{お母さん、今しんどがってないかな?新しい治療始まって上手くいってるかな?}とずっと不安がっていて五月晴れとか晴天と言った日は一日もありませんでした。」

 

 

 

 

「そういうヤングケアラーに対して周りの大人はどうして欲しかったですか?」

 

 

 

 

 

T「子供の時はケアのストレスと体の不調が伴ってなくて体はしんどかったし、心はさらにその上をいくような感じでズタズタになっていましたので、ありのままの自分の話を聞いて受け止めてくれる大人が欲しかったです。」

つづく

 

 

 

岡崎市交通事故施術

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

Facebookはこちら

アメブロはこちら

TEL:0564-73-5556

メールでのお問合せはこちら
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

2022年06月26日

ヤングケアラー4

「ご家族の方とは仲良くやっていましたか?」T「父とよくぶつかって{もう少し母の面倒をみてよ。}と言っていました。」

「仕事もさせてもらえない状況で自分の人生について考えたことは無かったですか?」T「めちゃくちゃありました。周りの同級生は社会に出てキャリアを積んでスキルアップして着実に階段を登っていく中で、私とくれば母の介護に付きっきりで皆から取り残されたような感覚に陥り、こんなんで私は本当にいいの?と常に思っていましたし社会から断絶されたような孤立感がずっと付き纏っていたし、すごくしんどかったです。でもいま振り返ったとしても、私にはこの選択肢しかなかったんです。」

「お母さんはその後、気胸を併発して10年の闘病の末、66歳でお亡くなりになりました。Tさんは33歳。およそ24年間ケアされてきました。亡くなられた時、どうでしたか?」

T「言葉にならないくらい落ち込みました。母は今までの私の全てでしたから亡くなったという実感が湧いてきた時は自分の体が半分引き裂かれて無くなったような焦燥感を感じました。ずっと母のケアだけをしてきて自分が30歳を過ぎてポンッと世の中に放り出されて気付いた時には私には何もない。何もしてきていない。何の蓄積もない。こんな人生何の意味もないと思いました。」

「お母さんと一緒に居た時はどういう風にとらえていたんですか?」T「病気が悪くなっていくのを見ていくというのは凄く辛くて、これが反対に治ったり良くなったりしていく病気ならいいですけど、ずっと悪化の一途を辿る中で私の出来ることといったら見守って励まして死とか病に恐怖する母の手をギュッと握ってやることしか出来ず何の慰めの言葉も出てこない位になるんですけど、でも「私が付いているからね。」としか結局言えず、あれだけ病気に苦しめられた母はそれでも最期まで病気と闘って生き抜いたその凄まじい姿を私に見せてくれていた。これは懸命にケアをしてきた私だけが受け取ることの出来るギフトではなかったかと私は気付いたんです。言い換えれば普通の母娘よりも濃厚な時間を過ごさせてもらって愛情も一杯貰ったし、母自体はどうする事さえもできない誰にも変わって貰えない中で一生懸命生きてる母の究極の人間の姿を見せてもらって、そう考えれば私は幸せだったなと感じています。」

つづく

 

 

岡崎接骨院

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

Facebookはこちら

アメブロはこちら

TEL:0564-73-5556

メールでのお問合せはこちら
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

2022年06月25日

ヤングケアラー3

「Tさんが大人になったらお母さんの状態はどうだったんですか?」

 

 

 

T[私が大学2年生の時に母が間質性肺炎を合併しまして、そこから私達家族にとっても母にとってもかなり厳しい状況に陥る形になっていきました。」

 

 

 

「間質性肺炎はどういった病気ですか?」

 

 

 

 

T「肺に炎症が起きて壁が厚くなり慢性的な呼吸不全が続き24時間酸素吸入をしてないと肺の使える表面積が段々と減っていき最終的には呼吸が出来なくなって溺れるような感じで亡くなっていくような感じになる怖い病気です。これは難治性で決して元には戻らない病気なので本人にとっても闘病は大変だったし介護する側にとっても大変でした。」

 

 

 

「お母さんはそんな状態だと精神的に不安定にならなかったですか?」

 

 

 

 

T「すごくしんどいものがあったし、おしゃれが好きな人だったので24時間鼻にチューブをつけてるというのがすごく抵抗あって嫌がっていたし、健常者からしてみれば想像を絶するものがあったと思います。時々ストレスを感じて泣いたりとか多発性筋炎にしても間質性肺炎にしても急に悪化する病気なので自分はあとどれくらい生きられるんだろう?といった恐怖になやまされていたと思います。」

 

 

 

 

「社会人になったら仕事とお母さんのケアを両立していかないといけないので、もっと大変な状況になりませんか?」

 

 

 

 

 

T「良くならない進行性の病気だったので両立していくのは大変だったし私が働き始めて2年目に母が悪性リンパ腫に罹ってしまって先生から{お母さんは今年一杯は居らっしゃらないだろう」と宣告されて「もってあと1年かな」と言われてしまって、その時私は自分の仕事か母のケアかどちらかに選択しなくてはいけない状況になってしまって、かなり揺れていたのを思い出します。でも結局、悩んでいる暇などなくて仕事などしている状況ではなくなり仕事を辞めるしか道はありませんでした。」

 

 

 

 

 

「お母さんも大変でしたがTさんも大変でしたね。」

 

 

 

 

T「どれをとっても重い病気でしたので私としては消えかかっているロウソクを消えないように両手でふさいで何とか守っているような状態でした。」

つづく

 

 

 

岡崎接骨院

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

Facebookはこちら

アメブロはこちら

TEL:0564-73-5556

メールでのお問合せはこちら
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

2022年06月24日

ヤングケアラー2

 

「友達とも遊べないですよね?」

 

 

T[そうですね。段々と少なくなっていきました。」

 

 

「どなたかサポートしてくださる方は居なかったんですか?」

 

 

T「最初の頃は母の親友の方が病院にまで付き添ってくださったり近所の人が煮物作り過ぎたからと言って持って来てくれました。」

 

 

「運動会なんかはおうちの方は見に来てくれましたか?」

 

 

T「いえ、学校の行事に関しては家の誰かが見に来てくれたということはありませんでした。」

 

 

「その頃、自分の置かれた境遇をどう思いましたか?」

 

 

T「なんで私のお母さんは病気なんだろう?こんな毎日は嫌。不安で寂しい。とか思う前に{こんなこと思ってはわがままだ。}という感情が先に出てきて母がすごく苦しがっていたのでそれを見ていると心苦しくて{あんなに母が大変な思いをしているのに私が寂しがっていては我が儘だ}と思い気持ちに蓋をしていました。」

 

 

「友達に相談したことはなかったのですか?」

 

 

T「ありました。ただ子供が他人の家庭を心配するというのはかなり難しい面もあって、こちらが話したとしても「へえ~大変ねえ。」で終わってしまって宙に話題が浮いてしまったり、{なんで今そんな暗い話するの?}と言われて気まずい雰囲気になったりして、友達としても私の置かれた状況をイメージするのは難しかったと思うし、あえて話したところで「悲劇のヒロインぶってる」と言われたりして、わかって貰えてよかったという記憶があまり無かったので段々と友達の前では話さなくなり心の奥に閉じ込めて特に友達の前では普通に装うようになっていきました。

 

 

「その頃、家事をして勉強してお母さんの介護して疲れが溜まっていたんじゃないですか?」

 

 

T「そうですね。凄く疲れが溜まっていたと思います。」

 

 

 

「当時、お若くして介護されててご自身の体調はどうっだたんですか?」

 

 

 

T「中学生までは心労が溜まり食欲がなく、時々吐き気をもよおすことがおおくなり、高校生になると過呼吸の発作がでるようになり、かなり体調としては悪かったです。授業も受けられなくなり学校もかなり休んだと思います。」

つづく

 

hand_microphone_interview

 

 

岡崎接骨院

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

Facebookはこちら

アメブロはこちら

TEL:0564-73-5556

メールでのお問合せはこちら
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

2022年06月23日

ヤングケアラー1

「最初、お母さんの症状はどうだったんですか?」

 

T「最初、顕著だったのは手の指先に力が入らなくてフライパンが握れなくなり食事を作れなくなって発熱に悩まされたりして、よく母が寝ていたのを思い出します。」

 

 

「それで入院されたんですね?」

 

T「そうです。それから24年間、入退院を繰り返してきました。」

 

 

「家事はどうされてたんですか?」

 

 

T「私は父と母と兄と私の4人家族でした。そうくれば女の子であった私が必然的に家事をやらざるを得なかったですね。」

 

 

「お母さんの面倒もほぼTさんがみられていたんですか?」

 

 

T「はい、そうですね。母がしんどそうにしてた時は私が寄り添っていたのが多かったように思います。」

 

 

「9歳となりますと小学4年生ですよね?生活はどうなりましたか?」

 

 

 

T「それまでは何事もなく安心して暮らしていましたが母が病気になると生活が一変すると共に心模様も一変して毎日心配で心配で学校行ってても何してても母のことが頭の半分以上を占めるようになりました。」

 

 

「その頃、ご自身としてはどういう感覚だったんですか?」

 

 

 

T「その頃、小学4年生だったので物事を客観的にしか見れていない自分が居て勉強、家事、母の病院時間というのをただただ必死で母のためにしなくちゃいけないという使命感でやりこなしていた状態です。」

 

 

 

「退院しても大変ですよね?」

 

 

 

T「そうですね。退院しても母は家で寝込んでいるのが多かったので大変でした。定期的に病院の外来に通っている時は先生の言ってくださる言葉をよくわからないなりにメモをとっていたような感じです。」

つづく

 

岡崎接骨院

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

Facebookはこちら

アメブロはこちら

TEL:0564-73-5556

メールでのお問合せはこちら
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

岡崎接骨院のおもしろい院長ブログ

岡崎市にございます岡崎接骨院では、院長がブログを配信中です。院内の出来事や治療の事、お体の事、あるいは日常のちょっとした出来事などを綴っておりますが、ご覧いただいている常連の患者様などからは、文学調で面白いとか、エッセイを読んでいるようだとの感想を頂戴しております。
単に痛みの話や交通事故治療の話を語り、岡崎接骨院にいらしてくださいというのではなく、どこか小説を読んでいるような面白さでございます。是非一度、ご覧いただき、院長の成りや人柄、考え方に触れていただければ幸いです。
接骨院での治療は直接お体に触れ、患部の症状を和らげていきます。そのため、やはり施術する人がどんな人であるのかは、患者様の関心事でございます。ブログを見て、この人なら任せられると思った方は、ぜひお気軽にご相談ください。

治療や料金について 患者様からの声
ページの先頭へ